「副業」は収入金額に関わらず、サラリーマンとしての会社業務とは異なる、もう1つの生きる道につながる場合があります。
副業からフリー独立への展望が開かれる時があるのです。
副業は、会社での業務や置かれた立場が苦しくなったりし、展望が持てない時の心の支えになる時もあります。
私自身、ガンになり勤めていた会社での業務が難しくなった経験があります。
多くの中小企業では、ガンになると残念ながら退職に追い込まれる場合があります。
身体の具合が悪く仕事の無理が効かない、通院に時間を取られる、フルタイム勤務が無理など、十分働けない事情による会社の圧力や職場の理解・協力の不十分さからです。
私は退職に追い込まれた時、どのように生きていったらよいのか、どのように生活していったらよいのか悩みました。
その時、たった1つの副業で生きる道を見出すことができました。
この副業経験は、その後のフリー独立への決断と希望につながりました。
教育産業の会社に勤めていた時、新規事業開発責任者として無理がたたり吐血。救急車で病院に。
私の勤務する教育産業の会社では、新規事業としてインターネット教育の事業が決定。
新規事業開発責任者として事務所・教室の選定、ハードの構築投資、ネットワークシステムの構築、人材のリクルート、そして経営者との資金関係の打ち合わせなど多忙を極めていました。
身体に無理がきて胃に激痛はありましたが、市販薬でごまかし、病院へは行っていませんでした。
ある日、打ち合わせで夜居酒屋へ行った時に気持ちが悪くなりトイレへ。
吐くのかと思ったら大量の吐血でした。
救急車を呼んでもらい病院へ行き、そのまま入院しました。
検査に次ぐ検査、そして輸血など診断には時間がかかりました。
ある時、医師から家族も呼んでほしいと言われ嫌な予感がしました。
家内とともに聞いた結果は胃ガンでした。
ガンの場所から胃の全部摘出手術になると告げられました。
当時ガンはまだ不治の病で、死に直結すると考えられていました。
私自身も生まれて初めて死を考えました。
しかし、それ以上に今後直面するであろう生活面の不安の方が大きかったのです。
当時、私には子供が3人いて、私立大学生、私立大学入学予定の高校3年生、高校1年生という構成でしたので、教育費負担が大きい時期でした。
退院したが会社に自分の席はなかった。そして、他の人が業務を指揮していた。
私が勤めていた会社は中小企業でした。
入院しながら会社の経営者と打ち合わせはしていましたが、経営者も不安だったのでしょう。
50日間の入院後、会社に出勤してみると、今まで使っていた自分の席がなくなっていました。
そして私の代わりに、人脈をたどり来てもらったスタッフの1人が、新分野の仕事の指揮を取っていました。
その人とは個人的には付き合いが薄く、また私と個人的に親しかった技術者はいなくなっていました。
干されたようなかたちで社内態勢は変わってしまっていました。
闘病しながらの通勤は、ラッシュ時に立っているのがとてもつらく、時差出勤となりました。
遅く出勤し早く退勤させてもらっていたので、フルタイム業務はできません。
職場では展望を失い、苦しく孤独な思いを深めていきました。
また、手術により胃を摘出し腸を食道につなげる形になっていたので、食事も排泄もうまくいかず苦労しました。
電車に乗っていても、下痢や消化不良によるおならで下車する時もかなりありました。
入院・闘病中、自分を支えたのはたった1つの副業だった。
私が入院する前から、当時編集プロダクションを経営していた知人に、スポーツ新聞のビジネス欄のコラム記事を書いてみないかと誘いを受けていました。
週1回原稿を書くコラムの仕事を始めて、半年がたっていました。
内容はスポーツ新聞内の中年男性に向けた、ビジネスマンのサバイバル記事。
リストラの不安にどう立ち向かうのか、社内でどう生き残るのか、退職せざるをえなくなったらどうするのか、転職の対策、独立の対策などが主なトピックでした。
コラムの執筆は、以前仕事をしていた研修会社などの経験も活きる分野でした。
会社には黙って副業をしていましたので、現在も私が使用しているペンネームにより署名入りで原稿を書いています。
私は入院中から、当時勤めていた中小企業の新規事業責任者を、闘病しながら務めるのは無理ではないかと危惧していました。
また、会社を辞めざるをえなくなったら、どう生きていったらよいのか悩んでいました。
その時、副業でやってきたライティングの仕事なら、在宅で闘病しながらも可能ではないかと思い始めました。
たった1つの副業でわずかな収入しかありませんでしたが、在宅ワークの可能性に光を感じていたのです。
6ヶ月後退職、独立してフリーへ
会社には戻りましたが、自分の健康状態では仕事が十分できず会社に迷惑をかけること、個人的に将来に展望が持てないことから6ヶ月後に退職しました。
その時、たった1つのライティングの副業が、在宅ワークでの独立を決断させてくれました。
ライターとしては独学、無名ではありました。
ですが、ライティングの仕事の新規開拓では、たった1つのスポーツ新聞の執筆実績だけで、出版社のビジネス雑誌編集者に企画込みで売り込みに行きました。
その結果、新雑誌であったためライターの体制も不十分だったのか、その雑誌で署名入り原稿4ページの記事掲載を書くことができました。
私の強みは企画から提案ができ、また人脈から生まれた実例取材先の候補を挙げることができることでした。
その後も、他の出版社へ飛び込み営業と企画提案をし、複数の雑誌に署名入り原稿のビジネス評論家、起業アドバイザーの肩書で売り込みに成功しました。
収入的にはライター業だけでは不足なので、キャリアのある新規事業開発分野の会社顧問として自分を売り込んでいきました。
人脈にも助けられ、インターネット関連企業の教育ROMの営業開発と、電子メールによる営業開発のプロジェクトの顧問契約を得ることができました。
教育ROMとは、TOEICの英語教材で企業の社内教育向けのものでした。
また、電子メールによる営業開発とは、当時まだ新しかった特殊なニーズを持った人に対するメールでのDM営業手法の開発でした。
私は、医療関係のクライアントに対する専門手術や専門医療の案内から始めました。
私自身のクライアントの開拓営業には心を配り、自分の人脈の洗い直しや、知人友人の紹介の可能性も検討しました。
その後、人脈をつたって出版編集プロダクションのホームページ制作事業を提案し、プロジェクトに参加することができ、なんとか半年間で生計が立てられる程度に仕事が安定してきました。
まとめ
私にとって、副業が生きる支えとなりました。
収入は金額ではありません。生きる術としての希望です。
私は経験不十分、無名、独学からのライターでした。
雑誌社営業はコネもなくすべて飛び込み。
営業は得意ではありませんでしたが、本気になれば不得意な営業も行うことができました。
闘病しながらできることは限られるため、これに賭けるという思いは強くありました。
そして、何よりも大切なものは人脈と悟りました。
新規事業開発顧問業務の場合は、人脈紹介が受注の決め手になりました。
実績も不十分な人間にとって、武器になるのは人脈紹介です。
特に確かな結果を出すことが不明確な、新規事業の開発やコンサルティングなどの分野では人脈紹介がとても有効です。
過去の仕事で出会った人も取材先になりました。
出会った人に助けられ、家族に助けられ、立ち上がることができました。
独立は過去にも考えたことはありましたが勇気がありませんでした。
リスクを恐れて、決断できませんでした。
病気という突然の事態の発生でなんの準備もなく、教育費のかかる時期ではありましたが、結果的に副業の経験により独立を決断することができました。
やむなし独立でしたが、病気により退路が断たれたことで結果的に道が拓けたのです。
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